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忍者と忍術

忍術とは何か?
忍術三大秘書のーつ『万川集海』 には「ソモソモ忍術ハ、ホボ盗賊ノ術ニ近シ」という文言がある。敵の城郭や他人の屋敷に忍び込んで、秘密や秘事を盗む行為は、とりもなおさず、これは盗賊の行為にほかならない。
他の忍術伝書にも『兵法秘要霜盗(しのび)之巻』『忍術秘伝霜盗目録』『軍法侍用集中籍盗巻』『籍盗秘密手鑑』など、盗賊を意味する語句を使用したものも少なくない。もともとI!忍術とは倫盗(ちゅうとう)術なりI,という直載な表現もあるほどである。
忍者の行なう忍術が倫盗術と異なるのは、命令者(雇用主)により、ある目的のために倫盗術を用いることにある。これに対して盗賊は、倫盗のために忍術を使用する。『忍者』『忍者と忍術』の著者戸部新十郎は、
「忍者ないし忍術行動は、命令者があってはじめて成立する。その内容は、敵と目される相手の情報、秘密を探り、流言を撒いて混乱させ、屋敷や城に潜入し、目的物を奪取したり、放火したり、ときには暗殺したりすることである」
と定義している。それに、忍者は集団・組織で行動するもので、組織から離れれば、また命令者がなければたんに盗賊の行為でしかないのだ。
例えば、相州ラッパで名高い風魔小太郎一党は、北条氏滅亡後、新興都市江戸を荒らし回った盗賊となり果て、石川五右衛門一味も京洛周辺で荒稼ぎを働く武装盗賊に転じている。しかし、忍者行動と盗賊行為は紙一重で、その線引きはむずかしい。

忍びの呼称について
戦国大名はそれぞれの忍者集団を抱えていた。呼び名は地方や雇用した武将によって、じつにさまざまで、乱波(らっぱ)、素波(すっぱ)、突波(とっぱ)、三つ者、ひき猿、軒猿、響談(きょうだん)、細作、間、草、芝見、鉢屋、甲賀、伊
賀、忍び役 等々である。乱波は関東、素波は関西、三つ者は甲州、軒猿は
越後、鉢屋は山陰地方でそう呼ばれた。甲賀、伊賀は全国的に知られた忍びの名称であった。しかし、それらの実態も組織もまちまちで、明確に分別することは非常に困難である。案外、はっきりしているのは、甲賀者は武士、伊賀者は土豪として扱われるが、他は野伏せり、盗賊、山賊、海賊、修験者、遊芸人など、どこからどこまでという境界もない。
ややこしいのは、職能集団も忍者行動や戦場に使われていたことである。石工(石 み・穴太衆)、工夫(金掘衆)、馬借(運輸業者)などである。

が、要は情報蒐集である。平時・戦時を問わず隣国・敵国の情報蒐集は当然のこと、天下の情勢を把握することも必要である。
では、忍者は何を探索するのか。
一、地形 山川の位置とその高低や深浅。町村の数や街道、間道、獣道など。 二、軍備 城砦の規模や数、その位置。城砦の防衛能力、守備兵の数。
動員総兵力。兵器の種類と数。軍団の構成。兵糧米の数量。
三、経済 農工商の生産能力。税率。町村の繁栄。領民の総数・性質。
四、人心 敵将の性格、長所短所。家臣との関係。家臣の忠誠度。領民の評判。 忍者が探索する情報は、ざっとこんなものかと思う。付加えるならば、流言、 うわさの類も貴重である。
これらの蒐集した情報を分析し、その正否を判断するのは、忍者を使う者の明智である。武田信玄は数多くの忍者を諸国に放って情報を蒐集し、甲斐に居ながらにして諸国の事情に精通し、II足長坊主”の異名があった。
とはいえ、傭兵である忍者は向背常ならぬ者でもある。正しい情報をもたらすとは限らない。山鹿素行は『武教全書』で、忍者は敵国へ往来させて、いろいろな情報を探らせるのだから、その人選が最も大切であると述べている。

忍者の戦場働き
鉢屋衆
尼子経久は富田城(月山城)の奪還に鉢屋衆という一団を使った。鉢屋衆は山陰地方に根を張った芸能賎民集団で、毎年の元日、富田城へ参内して千秋万歳や鳥追いの祝儀を行なう慣例になっていた。経久はそこに目をつけ、鉢屋衆に協力を頼んだ。
文明十八年(148のの元日、派手な素抱姿の下に腹巻を着込み、手槍・長刀を隠し持った鉢屋衆は、「あーら目出度や、五十六億七千万歳、弥勤の出世、三会の
あかつき 」と寿ぎながら、城内に入っていった。祝儀の万歳に城兵が気を
取られている隙をついて、尼子経久ら七十余人は揚め手が忍び入り、城内の各所に放火して、ドッと鯨波(とき)の声をあげた。これに呼応して鉢屋衆も一斉に城兵に襲い掛かった。不意を突かれた城主塩谷掃部介は防戦およばす、ついに妻子を刺殺して自刃した。
こうして富田城を手中にした経久は、出雲・伯者を平定し、山陰地方の覇者への道を歩む。鉢屋衆はその後も尼子氏の伸張のために働き、”尼子の行くところ、つねに鉢屋あり”と誕われた。
乱波(らっぱ)
小田原北条氏の忍者団は凄まじい。首領は風魔(風間)小太郎といい、身の丈七尺余、手足の筋肉はコブ立ち、眼はさかさまに裂け、黒髭におおわれ、口は大きく、牙が四本も生えていたという。多分に誇張されてはいるが、いかにも狂暴怪異な風貌を伝える。風魔一党は四手に分かれ、強盗、窃盗、山賊、海賊、 それぞれその場に応じて立ち働いた。敵国へ潜入して、城下や民家を焼払い、 財物を奪い、人民を殺裁し、女子供を連れ去った。その被害は甚大で、相州ラッパの跳梁に関東諸国の領民は恐怖に怯えた。が、敵国の勢力減少は小田原北条氏には有益であり、風魔一党は北条氏の関八州制覇には欠くことのできない忍者団であった。
その風魔一党も北条氏滅亡後、新興都市江戸を荒らし回る盗賊団となった。 もともと彼らは傭兵である。雇用主がいなくなれば、元の盗賊稼業になるのは必然であった。その風魔小太郎も同じ盗賊仲間に密告されて捕えられ処刑されている。
素波(すっぱ)
透波とも書く。素波は『狂言』にも登場する。
「このあたりに隠れもないセッパ(スッパ)でござる」(『女山賊』)。「まかり出でたるは、都にすまいする大スッパでござる」(『六地蔵』)。「都に隠れもないスッパじゃ」(『いくい』)。また『反故木』には「スッパ、盗人をいうなり」とあり、『加沢記』にも「盗人どもこれを聞き、よき物取りとて、信州のスッパと上州のワッパ(ラッパ)ども集まりて」とある。信州から西の方ではスッパと呼んだらしい。
スッパは近江・美濃地方に多く、二千人もいたという記録がある。有名なのが豊臣秀吉に仕えた蜂須賀小六である。秀吉は若い頃、小六のところに居候していたから、さぞスッパ働きもしたであろう。秀吉はスッパの効用をよく知っており、相当な数のスッパを抱えていたという。
蜂須賀小六らの美濃スッパは秀吉のために実によく働いた。播磨の三木城、 因幡の鳥取城攻めでは、周辺の米を高値で買い漁って飢餓状態に追い込み、“ 三木の干殺し、鳥取の飢(かつえ)殺し、弓も矢もいらず”と言わしめた。町や村を襲って焼き払い、収穫期の稲や麦を刈り取るという行為も、敵に打撃を与える有効な戦術のーつであった。
甲賀・伊賀
甲賀では早くから小武士団が、地縁的な同名惣を結んで「甲賀郡中惣」を結成。地域から奉行十人を選出し、捷を定め、軍事・行政・司法のすべてを評議によって決定し運営していた。近江の守護大名六角氏は、この甲賀自治体制をそのまま受け入れ、その代わりに六角氏が他国から攻撃されたときには、精強な甲賀武士団の合力を得るという盟約を結んだ。これは長享元年九月の“鈎(まがり)の陣”(別稿)で果たされる。甲賀衆は六角氏と深く提携していたが、六角氏滅亡の後、徳川家康に協力した。

天正十年六月の本能寺の変では、危難に遭遇した家康一行の護衛に加わり、 関ケ原の戦では、鳥居元忠の籠る伏見城に駆けつけて奮戦し、多くの戦死者を出している。家康はこの戦功に報いるため、甲賀衆や戦死した遺族の子を直参に取り立てている。
伊賀では二百余の土豪が互いに鏑を削っていたが、周辺大名からの侵略に備えて、土豪の連合組織“伊賀惣国一撲”を形成し、甲賀の“郡中惣”と連帯していた。伊賀の忍者組織では、土豪は上忍であり、その下に手足となって働く下忍(下人)がいた。上忍は城砦に多くの下忍を抱え、その用途により使い分けた。 さらに、他国の大名から要請があれば下忍を供給した。
伊賀の忍者は各地の戦国大名に召抱えられ、駿河の今川氏、三河の徳川氏は早くから伊賀者を召抱えていた。永禄三年五月の桶狭間の戦で敗走した今川方の中で、ただ一人鳴海城を固守し、織田信長に主君義元の首を返還させた岡部長教は、駿府への帰途、刈谷城に潜入させておいた忍びの報告を得て、伊賀者を含む百余の兵を率いて風上から火を放って、城中に乱入し、守将水野忠近を討取っている。岡部の手勢には数十人の伊賀者がいたらしい。

忍術三大秘書
『万川集海』 著者は藤林保武。延宝四年成る。保武は藤林長門の曾孫。伊賀・甲賀の忍士四十八流の忍術の長所を集大成したもので、忍術書としてはもっとも大部な伝書である。
『正忍記』 延宝九年、名取三十郎正澄によって書かれた。正澄は藤一水子正武、また藤林正武とも名乗った。藤一水は藤林を分解した名字で、『万川集海』 の筆者藤林保武とは兄弟か、縁戚にあたると思われる。
『忍秘伝』 永禄三年、服部半蔵保長がその子半蔵正成に伝えた秘伝書という。が、永禄三年はあやしい。内容に重々しさを与えるために、伊賀の大忍・服部半蔵保長の名を使って、後世に書かれたものであろう。

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