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茶園の剣聖ー中篠景昭と牧之原士族

現在も茶どころとして有名な、静岡県牧ノ原台地を開墾した徳川家家臣たちの物語です。
以下は今井塾長資料の抜粋です。

〇無禄移住の人々
二百六十年間つづいた徳川幕府の崩壊後、徳川家は駿河・遠江七十万石の一 大名となり、旧幕臣たちも徳川宗家を継いだ十六代家達とともに駿府へ移住し た。慶応四年八月九日のことである。このとき旧幕臣の去就について、次の三
箇条が提示されている。
一、朝臣となる者は旧幕府より受けたる邸地、知行、禄高等の本領を安堵せしめ、元通り下賜される。
二、農工商となるものは旧幕府より受けていた邸地、知行、禄高等すべて朝廷に上納し、それぞれ帰農、帰工、帰商すべし。
三、無禄移住の者は、旧幕府より受けていた邸地、知行、禄高等すべて朝廷に 上納し、その上で新領地に移住すべし、その中勤仕する者には扶助料を給すべし。
新政府に仕える者のほかは、朝廷へすべて上納して、農工商となるのも無禄 移住するのも勝手にしろというものである。むろん、駿府への移住者は”無禄”を覚悟の上であった。『駿府之移住相願候家族人数書』によれば、当主千二百 九十人名、家族六千五百八十五名、計七千八百八十三名となっているが、名簿 以外にも一万七千人ぐらいが移住してきたという。当時、駿府は四千四百七十六戸、人口二万千五百人ほどであったから、倍以上の人口増加となった。

これら無禄移住者は伝手を求めて寺院、農家、商家に分宿し、地元民から” お泊りさん”と呼ばれ、言うまでもなく窮乏生活を余儀なくされた。駿府藩で は、その年の暮、御役を務める者へ俸金人月分から支給したが、無禄移住者には一時救助の制度として、元高三千石以上に五人扶持、千石以上に四人扶持五百石以上に三人扶持、百石以上に二人半扶持、二十俵以上二人扶持、二十俵以下に一人扶持が毎月支給された。(一人扶持は現米一斗五升)。この扶持米は翌明治二年八月に二倍に増やされ、明治五年五月には扶持方の名称を廃され、家禄として現石高に改正された。つまり、十人扶持は現米十人石、八人扶持は現米十四石四斗となる。これが又金録公債に改められるのである。
とはいえ、無禄移住者は家族ぐるみで働かなければ生活できず、手習い師匠、豆太鼓・風車つくり・傘つくり・団扇の絵描き等の手内職、年寄などは宿屋の 帳付けや飯炊き等をし、そのほか古道具屋になったり、竹皮の草履つくり、竹細工品などをして糊口をしのいだのである。

しかし、もっとも悲惨な目にあったのは、徳川家の駿府移住によって移転させられた駿遠の諸大名とその家臣である。沼津藩水野家は上総市原郡、小島藩滝沢家は上総木更津、田中藩本多家は安房長尾、掛川藩太田家は上総芝山(松尾藩)、浜松藩井上家は上総鶴舞、相良藩田沼家は上総小久保へ移転となった。上総には旧旗本領が多かったが、移転先には城はないし住居もない。石高相当の所領地といっても、未開地の開墾をすれば石高相応になるという酷いものだっ た。これらの諸藩はその後、版籍奉還、廃藩置県の激流に呑み込まれて跡形なく消え去ってしまった。

徳川慶喜の護衛に結成された精鋭隊二百十七名は東照宮を記る久能山下に移住し、駿府の宝台院、感応寺に勤番していたが、明治元年九月に「新番組」と 改称され、翌二年五月に「新番組」は廃止となる。廃止とともに新番組頭中篠金之助景昭は、新たに「金谷開墾方御用」を拝命し、同年七月、新番組二百二十五世帯を率いて牧之原台地へ入植した。この牧之原開墾の経緯は、中篠が新 番組士族の身の振り方について、剣友であり、親しい仲である静岡藩監査役の山岡鉄舟に相談したところ、山岡は中篠の「帰農したい」という要望を受け入れ、牧之原台地の開墾を勧めたという。今一人、牧之原開墾を強く推し進めた のが関口隆吉(開墾方頭並)である。関口はのち静岡県知事になってからも、牧之原士族のために惜しみなく援助している。自ら開墾に加わりながら、新政府に出仕することになった悔恨の念からであったろう。

〇牧之原台地へ入植
牧之原は大井川の右岸に接する東西八キロ南北四キロの台地である。開墾地は千四百二十五町歩、これは牧之原全面積の三分のーに相当した。
明治二年九月、開墾の鍬入れ式にのぞみ、中篠はこう決意を述べた。
「思うに我が始祖は、三河の地にあって、祖君家康公の旗の本に馳せ参じたの である。しかし不幸にも祖君家康公は、牧之原を含む駿河の今川氏の人質となり、十年を越す。この間、始祖はひたすら家康公の身辺に及ぶ不礼なきよう頭をさげて顔を人に見せることなく、飢餓に堪えるため、田野を耕して食をつなぎ、ひたすら祖君家康公の三河帰還を願って暮らした。我々は今から始祖の例(ならわし)にもどり、この台地を開墾するのである。始祖の苦しみを思いて我が苦しみとなし、困苦に堪えてこの地を拓き国益となさん。これは静岡藩にもむくい、我らを理解し、支援をいただいた恩人達にもむくゆるためである。御ー同如何なる苦しみにもたえ、体を大切にして祖君以来の徳川家の恩、及び我が始祖を忘れることなく、団結してこの台地を切り開き成功を祈る」

この時の開墾方の組織編成は次の通りであった。
開墾方頭=中篠景昭 開墾方頭並=大草太起次郎(高重)、 松岡万、服部ー 徳、入江兼明、頭取=久保田栄太郎、榊原菅彦、加藤捨三郎 取締=入江了、井上嘉吉ほか九名。総勢二百二十五戸の士族は、それぞれ所定の割当地に入り、仮小屋のような住居を建て、牧之原開墾に挑んだのである。
かれらの日常生活は、朝十時ごろから開墾作業に出掛けるのがふつうだった。 遅いのはその前に剣術の稽古をやるからで、作業のときにも常に腰に一本差していないと、腰が定まらないと言っていた。
当初、一一日に一戸で十坪の開墾を目標にしていたが、そうは容易くなかった。原野に入って草を刈り、木々を切り倒して根を掘り起し、土を耕し、石を取り除き、整地するという作業は、いかに剣術で鍛えたといえ、かれらには苛酷な重労働であった。体をこわして休む者が続出し、ーケ月に十日も働けば良いほうであった。

明治六年初夏、茶園開拓後、初めて新芽を摘んだ。この日士族の妻女は振袖に俸掛けの姿で茶摘みをしたという。入植後、数々の失敗や同志の反目・離反など多くの苦難をともなったが、それでも明治十一年までの十年間で、二百十七町八反八畝三十三歩の土地を切り拓き、ー戸平均にすれば一町歩(3000坪)の茶園の造営に成功した。
この前後、士族の茶園開墾の成功に続いて、大井川架橋で失職した川越人足 や近隣農民の茶園開墾も盛んになり、静岡県(駿河・遠州・伊豆)は、茶の生産量で日本一となっている。製茶は相良港から船で横浜へ運び、輸出されている。輸出は勝海舟の念願でもあったから、勝の開拓士族に対する資金援助への尽力には並々ならぬものがあった。
明治十年十月、明治天皇が東海道御行幸の折、中篠景昭、大草重高を静岡市の行在所に招じ、労をねぎらって金一封(金千円)を下賜された。

〇開墾方頭・中篠景昭
明治二年七月二十六日、牧之原開墾方頭に命じられた中篠景昭は、このとき四十一歳であった。かれは文政十年、御小姓組中篠市右衛門の子に生まれ、通称を金之助。家禄は三百俵だった。
剣は心形刀流の伊庭如水軒秀秋の門に入り、たちまち頭角を表わし伊庭門下 の高弟となった。さらに北辰一刀流の千葉周作の玄武館に学び、生涯の良き友となる山岡鉄舟と出会う。文久二年、講武所剣術教授方となり、御小納戸役・布衣を許されている。翌文久三年、幕府浪士取締新徴組支配、御徒頭となり、慶応四年、将軍慶喜警護の精鋭隊頭を務めた。こうした赫々たる過去を捨て去って、帰農の覚悟を決めた中篠は二百二十五戸の士族を率いて、牧之原台地に分け入ったのである。
明治四年、新政府が山岡鉄舟を通じて、景昭を神奈川県令(知事)になるよう再三にわたり勧めたが、かれは「一たん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬよ」といって笑い飛ばし、「この体、最期はお茶の肥やしになる」といって断ったという。この微動たりともしない固い信念が二百二十五戸の士族の心を動かしたのであろう。

中篠景昭は広大な開墾地の見回りには馬に跨り、ふだんの農耕の際には短い袴をはいて威儀を正して作業していたという。生涯頭のチョン髭を切ることはなく、最期まで徳川旗本の務持を捨てなかった。中篠や大草の屋敷地は大変広く剣道場もあり、大草の家には弓道場、馬場もあったという。
幼少の頃より修練した心形刀流は「心を錬るを第一とし、業を尽くすは第二 とする。心は理、形は心の使役するものであるから、心直なれば形も直、心歪めば形も歪む、故に心を直に形を正すエ夫こそ肝要、かくてこそ、心、形、刀の三者は一致の働きをなすものである」という。まさに中篠景昭の生涯の信条であったにちがいない。近隣の農民はこんな中像の徳を慕い、先生、先生と呼んで敬仰の的であった。
明治二十九年一月十九日、牧之原開拓と士族の殖産のために生涯を尽くした、幕末の剣客中篠景昭は七十七歳をもって牧之原の土と化した。葬儀には、勝海舟が葬儀委員長として牧之原の中篠の家に駆けつけてきて、手厚く葬った。墓は初倉村坂本(現島田市)にある種月院。法名を常純院殿景昭大居士。
昭和六十三年、島田市は入植百二十年を記念し、中篠景昭の牧之原の谷口原の住居前に公園を造り、銅像を建立した。銅像は東向きで、遠く江戸をのぞんでいる。

〇大草太起次郎高重
開墾方頭並の大草高重は天保六年、和田勝善の二男として丹後国久美浜陣屋に生まれ、十三歳のとき、大草長三郎高克の養嗣子となった。太起次郎といったが、慶喜から多喜次郎と改名され、号を水泡(審斎)といった。学問は大竹豊 蔵、山田又左衛門に学び、騎射は小笠原平兵衛、剣槍は西尾寛一について腕を磨いた。特に馬術にすぐれ、騎射は旗本子弟中、かれの右に出る者はいなかったという。安政二年三月、二十一歳の時に江戸から鎌倉八幡宮まで往復三十余里(約120km)をわずか四時間で馬を跳ばしたという奇跡的逸話がある。明治二十年十月、千駄ケ谷の徳川家達邸における明治天皇天覧の流鏑馬に出場し、三箭(さんぜん)とも的中する腕前を披露して金二百円を下賜された。
大草は牧之原の岡田原に入植し、岡田原、十三原、青柳原、海岸字川向など 六十五町歩を管理した。岡田原入植者は他の組にくらべ残留者が最後まで多かったのは、帰農者として成功者が多かったと見てよい。これは大草の指導がよく、茶園経営の他に畑作や水田も手がけ、野菜づくりなど自給体制をとったことであり、大草の経営手腕が光っている。
大草高重は、明治二十五年四月十日、五十八歳でこの地に残した。墓所は岡田原を見下ろす台地にある。大草の子孫は今も当時の家に住み、四代に及んで茶園経営に当っている。現在、士族残留経営の七家の一人である。

〇今井信郎為忠
信郎は天保十二年十月、江戸本郷湯島天神下に生まれた。父は今井守胤。十八歳で直心影流の榊原鍵吉に入門し、二十一歳で免許皆伝を得る。”片手打ち ”を得意としたが、危険性が高く、榊原に禁じられたという。元治元年、講武所の師範代、岩鼻代官所の剣術師範を経て、慶応三年五月、遊撃隊頭取として上京、京都見廻組与力頭となった。同年十一月十五日、河原町近江屋において坂本龍馬、中岡新太郎を暗殺した一人として知られる。戊辰戦争では各地を転戦し、明治二年箱館で投降、禁固三ケ年となる。翌三年には静岡藩預かりとなり、明治五年牧之原に入植した。今井は中篠の開墾地谷口原近くの鶴ケ谷に一戸を構えた。刺客を恐れていたようで、玄関で一太刀で斬られぬように家の構造に工夫をこらしていた。
今井は牧之原にいて近隣農民を決して呼び捨てにしなかった。何々さんと「さん」付けで呼んだ。このことから農民には親 しまれた。そこには「片手打ち」の達人の面影はなかった。士族の剣術稽古には見向きもしなかったという。むしろ、静岡藩で廃校となった藩学校の寮を払い下げてもらい、外人教師を招いて、英・漢・数・農業実習を教育したり、塾のような所を開いて誰でも勉強ができるようにするなど、農業指導や教育方面に熱心であった。
牧之原におけるかれの活動を列記すれば、
明治17年7月 静岡県勧業諮間委員
明治28年4月~同33年3月 榛原郡農業会長
明治22年4月~同31年4月 初倉村村会議員(3回当選)
明治34年3月 学務委員
明治35年2月 初倉村農会長
明治36年4月 上記職再任
明治39年2月~同42年2月 初倉村村長
となる。当時は殆んど名誉職で給料は無かったから、生活は貧乏に近く、妻 いわが畑に出て生計を支えていたという。今井の二男建彦は中央新聞政治部記者をへて福井日報社長となり、大正十三年千葉第二区から総選挙に出馬、日本進歩党に入党。昭和二十一年まで連続当選七回、文部省政務次官を務めている。
建彦の妻が歌人として著名な今井邦子である。
大正五年、今井は突然脳卒中で倒れ、半身不随になったが、頭はしっかりしていて読書習字はやめなかったという。二年後の大正七年、坂本村の自宅において、その波乱に満ちた七十八歳の生涯を閉じた。今井の墓は種月院の中篠景昭の墓の裏側にある。

〇余談
毎年五月の茶摘み時には、士族の妻女が振袖に巾の広い俸をかけ、陽よけの手拭いを被って顔をかくし、手袴(てこ)をつけ、草履をはいてぬげないように紐で結んでいた。この服装が珍しいので、近在の女子供も大勢見物にきたという。今日、静岡の茶のポスターに見られる茶摘み娘の姿は、おそらく、この士族の妻女の服装が、のちに農家の娘さんの茶摘み姿に変化したものだろうといわれている。

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