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温故塾第88回 「敵討の真相」

以下は敵討の実像に迫る、今井塾長の資料から抜粋したものである。

・敵討の条件
わが国に於いては、古来「敵討」に関するなんらの法律上の規定がなかった。敵討の事実はあるにも関わらず、その法規がないのである。つまり、敵討とは国法上のものではなく、父兄家族を討たれた人間の巳むに巳まれぬ至情から起こったものである。そうした至情から生まれた行為であるから、これを罪として処罰しないということになっていた。
江戸時代、さかんに敵討が行なわれた理由は、長幼の礼を重んじ、君父の仇 は不倶戴天とする思想を鼓吹する儒教を基本方針して採用していたからである。
幕府では敵討を公認していたが、それには幾つかの条件があった。
一、士分の者に限られていた。
百姓・農民の敵討は事後に収監し、取調べの後、認定されれば無罪となる。
二、敵討をするには公許を得ること。
前以って、江戸ならば町奉行、京都ならば所司代へ届け出て、帳面に登録を願うこと。届出済みならば、公領・私領を間わず何処でも敵討ができた。
三、討手は被害者の目下の者でなくてはならない。
父母兄姉の尊属の敵討は認めるが、弟妹・子供の卑属の敵討は認めない。
四、禁裡築地内、江戸城郭内、芝・上野山内などで敵討は禁止。
日光山、大坂城、駿府城も同じ禁止区域である。
五、復敵討は認めない。
討取られた仇人の兄弟や子供が、討手に復讐をしてはならない。復敵討を認めると、双方が際限なく敵討を繰り返すからである。
六、仇人がすでに死亡していた場合、その確実な証拠を持ち帰る事。
長い間探し回っても敵が見つからず、帰参のロ実に敵が死亡したと偽って帰って来ないとも限らない。そうした虚偽の申し出を取り締る為である。
・武家において、当主である父や兄が殺されれば、当然家禄は没収される。どのような事情にせよ「不慮の死は武士の不覚」と見られていたのである。その武家の不名誉を回復するために敵討が公認されていたのであり、殺された者の子供や弟が、見事に本懐をなし遂げれば、帰参が叶って家禄は回復し、時には加増を得る場合もある。
百姓・町人の敵討は本来認められていないが、享保年間頃からしだいに増え、それ以降は武士の敵討は少なく、百姓・町人の敵討が多くなる。これは武士が軟弱化し、百姓・町人の社会的台頭があったことや、『仮名手本忠臣蔵』などの演劇・小説・講談で、敵討が”忠臣孝子の誉れ”として、世間から熱狂的な称賛を浴びたことが大きな原因のーつだろう。

・敵討後の始末
無事に敵討をとげた後もたいへんである。仇人の住んでいた地元民に「盗賊 だ!」「強盗だ!」と騒がれて、鍬や梶棒で追い掛けられた者もいる。討手は長い旅暮らしで、衣服はボロボロだ。乞食や泥棒に間違えられることもあった。 仇人が他家に仕官していれば、追っ手がかかる心配がある。
例として、常陸国磯浜村の浅田鉄蔵・門次郎兄弟の敵討後の始末をあげる。
地元民に囲まれた兄弟は「敵討だ、敵討だ」と大声で叫び、村役人を呼んだ がなかなか来ない。そこで博徒の親分が二人を自宅へ連れて行き、食事をさせてから庄屋方へ送っていった。庄屋の連絡で水戸藩から役人がきて検証し、敵討免状の写しをとり、土地の関係者から聞き取りをした。兄弟は飛脚で江戸の小田原藩邸へ「敵討本懐」の手紙を出した。
水戸藩の連絡をうけた小田原藩から、物頭、検視、徒目付ら二十人が兄弟引 取りに出立する。その間、兄弟は豪商の家に移されて厚遇を得た。水戸藩主徳川斉惰(なりのぶ)は銭千匹と、羽織、帯、単衣、袴、下帯、手拭いを与えている。こうして二人は小田原藩へ帰参が叶い、藩主から大小、麻上下、紋付の唯子を与えられ、足軽身分から五十石取の士分に取り立てられた。

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