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温故塾89回 加賀爪四代記

今井塾長による、じもと東松山市の高済寺ゆかりの加賀爪氏に関する話で、以下は資料の抜粋です。

・加賀爪氏の来歴
加賀爪氏は『寛政重修諸家譜』『藩翰譜』などによれば、関東の名門上杉氏から出ている。上杉朝定の曾孫満定は駿河の今川範政と縁戚関係(妹が範政の室)にあり、わが子政定を範政の猶子(ゆうし)に出した。この時、政定は上杉氏を改めて加賀爪氏を名乗った。その子忠定の時、今川氏の被官となり、代々遠江国山名郡新池郷(現・袋井市)を領し、永禄十一年(1568)、政豊の代になって徳川家康に臣従した。

・加賀爪忠澄天正十四年~寛永十八年(1586′- 1641)
加賀爪氏歴代でもっとも傑出していた人物は、この忠澄であろう。忠澄は十 四歳の慶長四年(159の、秀忠の御前にて元服し、「忠」の一字を賜って忠澄と名乗った。初名は甚十郎。初め秀忠に仕えたが、関ケ原合戦後、家康に乞われて近侍した。大坂冬夏の両陣では、使番をつとめ、諸軍の先陣配置を行ない、夏の陣では大坂方との交渉の使者にも立っている。戦後、従五位下民部少輔に叙任。元和五年には御目付となり、寛永二年(162のには、武蔵国比企、相模国高座、 下総国海上の三郡のうちで四千五百石、さらに一千石を加増されて、併せて五 千五百石を知行する。寛永八年に町奉行となり、同十年には四千石を加えられ、九千五百石の大身の旗本になった。寛永十七年一月、諸大名を監察する大目付に昇進した。この年六月、忠澄の名を天下に轟かせる大事件がもちあがる。六月の初め、長崎にポルトガルの船団がやってきた。すでに幕府は「鎖国令」を布いており、諸外 国にも通告してあった。それを無視しての入港である。幕府が神経をとがらせ たのは、船底にひそんで上陸をたくらむキリシタンの徒(宣教師)であった。忠澄はただちに長崎へ急行するや、それらの船を積荷ともに容赦なく焼き払 い、キリシタンの徒六十三人を捕え、ことごとく処刑した。医師や船子十三人の命は助け、別船を仕立ててマカオ港へ追い帰して、早々に事件の決着をつけた。
寛永十八年一月三十日夜、京橋桶町から出火、折からの強風にあおられ瞬く 間に燃え上がり、九十七町、民家千九百二十四軒、武家屋敷百二十一軒、与力・同心屋敷五十七軒を焼き尽くし、焼死者は数百人におよんだ。この大火事に、忠澄は消火の指揮をとって出動中、火炎に巻き込まれて焼死を遂げた。享年五 十六。下谷広徳寺に葬られた。法名は高雲院殿一玄宗薫大居士。

・加賀爪直澄慶長十五年~貞享二年(1610– 1685)
”夜更けて通るは何者ぞ、加賀爪甲斐か泥棒か、さては坂部の三十か”と戯れ唄にまで詠まれた旗本奴の大立て者として有名。講談『寛永御前試合』にも飛び入りで登場し、大久保彦左衛門と太刀打ち勝負では直澄が勝ち、甲胃の組打ち勝負では彦左衛門が勝ち、双方なかよく引き分けたという。むろん、これは後世の作り話だが、まったく根拠のないことではない。『徳川実記』の寛永十六年二月十四日の項には、直澄が柳生十兵衛三厳、同助九郎宗冬らと剣法の上覧に供した、という記事が見えるから、直澄の剣術は相当なものだったろう。
直澄は早くから家光の御小姓として仕えて二千俵を得、寛永人年に従五位下 甲斐守の叙任を受け、同十年には御小姓組組頭となった。まず順調な出世ぶりである。
 寛永+八年一月、不慮の死を遂げた父忠澄の遺領九千五百石を継ぎ、自分の 二千石のうち一千石を信澄に、五百石を定澄に分与し、残り五百石を加えて併せて一万石となり、遠江国掛塚(現・竜洋町)の領主となる。その後、慶安三年に御書院番番頭となり、翌年家光の死去に伴い、日光山の大猷院廟造営の検分役をつとめている。明暦元年(165の、大番頭(徳川家の師団長)となり、寛文元年(1661)には寺社奉行に昇った。寛文八年、三千石を加増されて一万三千石となる。延宝七年(1679)六月、七十歳を機に隠居し、家督を土佐守直清にゆずった。その二年後の天和元年(1681)、所領争いが起こって、一万三千石の領地を没収され、直澄は土佐国へ流罪となる。貞享二年十月三日、七十六歳で残。遺骸は大目付の検視をうけて高知市五台山の吸光寺に葬られた。法名は梅楊院殿峯山常雪居士。

・加賀爪家改易の背景
当時、五代将軍綱吉は自分の将軍就封に反対した酒井雅楽頭忠清一派を粛清中であった。直澄の正室は、この忠清の姪にあたる伊奈忠政の娘であった。おそらく直澄は”下馬将軍”と称され、絶大な権勢をふるった忠清人脈の一人であったろう。その点から直澄は呪まれていたに違いない。文書のささいな手違いで改易処分にし、隠居の直澄を流罪に処したのは、忠清と親しい人物と見られていたに違いない。

・高済寺の墓碑名
想えば、加賀爪家は重なる不運に見舞われた旗本である。政尚は、伏見館の楼門の下敷きとなって横死し、忠澄は、大火事の火炎の中に焼死を遂げた。一 万三千石の領主となり、寺社奉行まで昇った直澄もまた、実子の直輔には先立 たれ、自身は老齢の身を土佐に流されて、その地に残した。さらに養子の直清 も幽囚生活のうちに亡くなっている。ただーつの救いは、直澄の異母弟・信澄 の家系がー千石の旗本として1/加賀爪”の名跡を幕末まで伝えたことである。
高済寺は、政尚の妻の法名「高済院殿自久妙然大姉」から、寺名が付けられたという。寺領二十五石の朱印は直澄の力によるものであろう。

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