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永源寺と島田家の人々

旗本島田家の人々
島田家は徳川家の三河時代からの直参で、重次の代に武蔵国入間郡坂戸に二千石の采地を得た。重次の父親の俗名(*廿秀とある)は不明だが、広忠・家康に仕 え、のちに坂戸に隠居して慶長十八年(1613)五月、八十九歳でこの地に没した。法名を永源。その名をとって永源寺を建立し、代々の葬地とした。重次は家康に仕えて御使番を勤め、天正十八年には四十人の鉄砲足軽を預けられた。大坂の役では御旗奉行となり、寛永十四年九月、九十三歳で残している。法名を以栢。重次には、春世、成重、直時、利氏、利正の五男があったが、春世が父に先立ったので、遺跡を継いだのは五男の利正である。成重、直時、利氏はそれぞれ別家を立てている。
成重の家系
成重は弱年の頃、人と口論して、これを討って逃れ、越前中納言松平(結城)秀康に仕えたが、忠直の配流ののち、秀忠に召されて御先鉄砲頭となり、三河国設楽郡で二千石の采地を得た。成重の子直次は御小姓組、同組頭、御先弓頭をへて御旗奉行となり、寛文十二年八月致仕、天和元年(1681)七月八十七歳で残した。三河野田村の法性寺に葬り、代々の葬地とした。直次の後は、直正、直好、直時、直方、直矩、直義と続き、直好の時五百石を叔父直盛に分地したが、家禄千五百石を幕末まで伝えている0
直時の家系
直時は家康に仕えて、小田原の役、九戸の役、名護屋の陣に供奉し、大坂の
両陣では鉄砲足軽五十人を預けられた。元和五年大坂町奉行となり、寛永二年
従五位下越前守に叙任し、同四年堺奉行を兼任した。が、翌五年十月七日、豊
島信満の刃傷事件にからんで自刃した。直時の嫡男直次の子孫の直次郎は親不
孝の罪で八丈島へ流罪。ニ男時郷は徳川綱重卿の家老となり、采地三千石を得
たが、主君に対する不敬のかどで毛利綱広に預けられ、直時の家系は断絶した。

利氏の家系
庄五郎を称した利氏は御使番を勤め、高麗郡のうちで采地五百石。孫の重頼
は御書院番から御目付に進んで新恩三百俵を得る。延宝五年(167の大坂町奉行となり、従五位下越中守に叙任、新たに千石を加えられ、すべて一千五百石と三百俵となる。守恒のとき、三百俵を采地に改められ、知行千八百石となった。守恒は御書院番、御使番をへて北陸道・近江国の巡見使を務めたが、正徳二年六月、職務怠慢で小普請に販されている。が、千八百石の家禄は存続した。

利正の家系
島田本家を継いだのが、重次の五男利正である。
l 知恵者・島田利正の直言
重次の五男利正は”知恵者・切れ者”として評判の人物で、「老中の不正を叱った話」「日光東照宮の宝塔問題の直言」「人と交際する心得」など、多くの逸話が伝えられる。幼名を兵四郎といい、秀忠に仕えて、使番、徒士頭を経て、慶長十八年町奉行となり、寛永二年従五位下弾正忠に叙された。
ある時、老中たちが集まって、「ちかごろ、諸物が高値で万民が困っている由、 どうしたら値下げできるであろうか」と評議していると、利正が進み出て、「老中さえ物を買いためるのに、利を求める商人が買いためるのは当たり前である。
それで、なんで値下がりなどしようか」と直言した。老中たちは口を揃え、「誰が買いためたのか!」と利正に詰め寄った。
すると、利正「まず酒井讃岐守から買いおく」と言う。讃岐守(忠勝)は血相を変えて、「それがし、いささかも覚えなし」と、家老の深津九右衛門を呼んで、そのことを紅すと「さらにそのようなことはなし」という返答である。それを聞いた讃岐守は利正に向い、声を荒げて「恐れながらも天下の口真似(政治)をもする讃岐守に、どのような証拠があって、そのようなことを言うぞ」と怒鳴った。
利正は「ならば申そう。何月何日、大豆をいかほど買ったかご存知か。馬の 飼料にもせよ限度がある。何に用いるにもこれほどは入らず、これは買いおきにはあらざるか」と言った。これには讃岐守も覚えがあったとみえて、返答に窮したという。利正の歯に衣着せぬ言動は常にこのようであった。(『武野燭談』)

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