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江戸の災害史

まことに日本は災害列島である。地震、津波、火山の噴火は火山列島でもある わが国では避けられない災害であるし、周囲を海に囲まれている地勢上から、毎年襲来する台風のもたらす風水害も避け得るすべもない。古来、日本民族はこうした様々な災害に幾度も見舞われながらも、その度に 不死鳥の如く復興を成し遂げてきた。驚くべき忍耐力、生命力と言えよう。今 回は、江戸時代の江戸周辺に限定して、災害の歴史を振り返ってみる。

以下現在への注意喚起を兼ね、自然災害のみ抜粋したが、他には火事、飢饉も取り上げた。

【 地震】
「日本災害史年表」によれば、江戸を襲った震度6以上の地震は15回を数え る。元和元年(1615)から慶安三年(1650)の間に頻発しておこっており、
元和元年 六月(1615)、
寛永五年(1628)七月、
同七年(1630)六月、
同十年(1633)十月、
同十二年(1635)一月、
同二十年(1643)十月、
正保四年(1647)五月
慶安二年(1649)六月(震度7.1)、
同年(1649)八月、
同三年(1650)三月
と十回を数える。その後、五十五年ほど江戸近郊は小康状態にあったが、
元禄十六年(1703)の十一月に大地震が起きた。さらに、
延享三年(1746)の三月、
天明四年(1784)の七月、
安政二年(1855)の十月(震 度6.9)、
同三年(1856)十月にも起こっている。
なかでも元禄の大地震と安政の大地震 は、江戸を襲った一番大型のもので”二大大地震”といわれている。

〇元禄大地震 震度8.2
元禄十六年十一月ニ十三日午前三時頃、雷のような凄まじい地鳴りが聞こえる大地震だった。戸障子が倒れ、家は小船が大浪にゆれるように動き、地面が 二、三寸より所によって五、六尺ほど割れ、砂をもみ水が噴き出した。石垣が崩れ、家蔵はつぶれ、人々の泣き叫ぶ声が街々に満ちた。おびただしい死傷者が出て、江戸城もこの時大破した。余震が何度かあり、同時にあちこちから出火し、両国橋、回向院を焼失。死者3万1739人を出した。
東海道一帯に及ぶ地震だったが、最も被害のあったのは小田原で、城の天守 閣、本丸とも崩れ、その上火を出して焼けた。地震後、相模湾沿岸、房総半島東岸には津波が押し寄せ、溺死者もまた少なくなかった。
震災地全体で倒壊家屋2万162軒、死者5233人(江戸以外か?)。幕府は応急 処置として流言飛語を禁じ、大寺大社に天下安全を祈らしめ、町方の犬扶持(中野の犬小屋費用)を免除した。この地震により、年号を”宝永”と改める。

〇安政大地震 震度6.9
安政二年十月二日夜十時頃、にわかに大地が激しく震動した。これは局部的 烈震で、区域は江戸及びその東隣にかぎられ、直径わずか六、七里(24-“-28キロ)、強震区域を入れてもなお直径二十七、八里にすぎぬ。だが、震源はほぼ江戸市街の真下、しかも浅い所にあったらしく、震度はすこぶる強大であった。つまり直下型地震である。その上、地震と同時に数十ケ所から火を発し、江戸は文字通り火の海と化した。
武家町家の差別なく、大度高楼も倉庫もたちまち炎上して黒煙天をおおう凄 まじさ、家の下敷きになる者、火炎に焼かれる者、川に飛び込み溺れる者など酸鼻を極めた。激しい余震が連続して襲い、被災者をいやが上にもおびえさせた。『武江年表』には「豊を並べし諸侯の藩邸、或ひは傾き或ひは崩れ、たちどころに所々より火起こりて、巨材瓦屋の焼け崩るる音天地を響かし、再び震動の声を聞く、暁方に至り灰燈となれるも多かりし」とある。死者6641人、倒壊家屋10万4346という被害であった。
もともと埋立地であった江戸の町は各所に液化現象がおこり、武家屋敷、町 家の傾き、埋没が起ったが、台地上の屋敷や家屋は倒壊を免れている。
幕府は十月七日、寛永寺、増上寺に天下安泰の祈祷を修せしめ、十一月二日、凌雲院以下十二寺に命じて死者の施餓鬼を行わしめた。また便乗する暴利取締令を出し、五ケ所にお救い小屋を建てて羅災民を収容した。この地震で吉原遊廓が全滅、多くの遊女・遊客に死傷者が出た。また、水戸斉昭の重臣藤田東湖、戸田忠太夫が圧死している。

【 火山の噴火】
日本列島は北海道から沖縄列島まで、まさに火山で成り立っているといっていい。死火山、休火山、活火山とー口にいわれるが、いつ死火山や休火山が爆発しないとは限らない。近年でも御岳山、浅間山、雲仙岳、阿蘇山、霧島、桜島、大島、八丈島などの噴火爆発があった。江戸時代も同様で、大きな爆発で甚大な被害を出している。

〇富士山の噴火
宝永四年(1707)十一月二十日、『武江年表』によれば「富士山の根方の須走り口焼ける。天暗く雷声地震移しく、関東白灰が降りて雪の如く地を埋む。西南頻りに稲光あり、白昼暗夜のごとくになり、行灯提灯をともす。二十三日殊に甚だしく、二十四日に至り天晴れ、岐日(太陽)を拝して諸人安堵す。また二十五日二十六日再び天曇り砂降り、雷声の如き地震あり、是より黒灰振り、二十八日平常の如し、この時出来たる山を宝永山という」とある。この降灰で肺やや喉を病んだ者が多かったという。幕府は小田原領内の焼砂(火山灰)に埋まった土地を公領とし、これを修復するよう関東郡代伊奈半左衛門に命じた。ついで相州・武州・駿州三カ国の内、砂に埋まった村々を救うため、諸国高役金、御料私領共に、高百石に付き金二両宛を在々より取立て、幕府の金蔵に上納せよと命じている。東海道筋に降灰の被害が大きかっただろうが、その記録に乏しい。

〇浅間山の大爆発
天明三年(1783)の浅間山大噴火は、日本といわず、世界でも最大級といわれ る。この年の四月頃から噴火を繰り返していたが、七月に入って次第に噴火が激しくなり、「数千の雷、ー時に鳴るが如く、響きは地震の如く、絶え間なく民家を動かし、震え潰れんも計り難し」というような日々が続いた。
そして、七月八日午前十時ごろ、一大音響とともに浅間山は大爆発を起こし、幅三十間(約54メートル)、高さ数百丈(推定一万メートル)にも及ぶかと思われる火煙を噴き上げた。火口から吹き出た大量の溶岩流が、山の北側斜面を滑り落ち、途中の土砂・岩石を巻き込みながらその量を増やし、あっという間に火口から15キロ北にある鎌原村を埋め尽くし、さらに吾妻川までなだれ落ちていった。「鎌原火砕流」である。噴き出した火石は2. 3メートルから10メートルもあり、中には32メートル四方の巨大な物があったという。鎌原村597人の村民は466人が死亡、馬200頭のう ち170頭が死亡した。
また火砕流は吾妻川を堰き止め、ついで決壊して利根川筋一帯に大水害を及 ぼした。『武江年表』には「泥水山の如く押しかけ人家跡形なし。中瀬八丁河岸の辺りへ、樹木、家屋、人馬の死骸流れることおびただしく、その外の川々、焼石打込み水は熱湯のごとく、上州一円の民も二三日昼夜途方にくれたり、信州より上州、熊谷辺まで遠近あれども、四、五年の間作物ならず、この間の難にふれて死する者凡そ三万五千余人といふ」とある。
『地災集覧』によれば、浅間山南麓では軽井沢村の被害が一番大きかった。一尺ほどの焼石が降り注いで、家屋五十六軒を焼失した。人々は戸板を担ぎ、桶、播鉢などを頭にいただき、夜着、蒲団を被って逃げ回る中、山中から猪・鹿・狼が多数走り出て来た。その上馬まで暴れだし、宿場はたいへんな騒ぎになった。
火山灰は関東一円に降り積り、藤岡で八、九寸、高崎・富岡で一尺五寸、松井田で三尺、碓氷峠では五、六尺も積もって人馬の交通が途絶えた。
この浅間山大噴火によって、天明三年の夏は異常な冷夏となり、またその噴煙は灰となって東国一円の地表面に落下し、稲作は空前絶後というべき大凶作となってしまった。天明大飢僅のはじまりであった。

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